ブライシノマキ 〜中瀬はつくられた島だった!?〜

石巻の中心部を悠々と流れる北上川。この北上川に位置する中洲を「中瀬」といいます。石巻の象徴といっても過言ではない「中瀬」。みなさんはこの「中瀬」がいつ、どのようにしてできたか、知っていますか?

「そんなの、自然にできたんでしょ?」と考えるでしょうか。

実はこの中瀬、どのようにしてできたかはよくわからないのです。歴史の書物に中瀬が登場するのは1689年の「牡鹿郡萬御改書上」という書物。江戸時代に急に登場した中瀬。そんな中瀬について、こんな説が石巻では囁かれています。それは、

「中瀬、実は作られた島だったんじゃないか説」

この説を展開するのは地元郷土史家の辺見清二さん。地元では言わずと知れた郷土史家です。そこで、ここでは「中瀬が実は人工的に作られた島だったのではないか」という仮説

(ミステリー)をご紹介します。

辺見さんによると、中瀬が人工的に作られたと考える理由は三つです。

なるほど、土砂が堆積したのではこれほど大きな島にはならないそうだとか。

昔の中瀬の村境はこんな感じだったのです。

大昔に自然にできたのであれば、左岸の湊村も入っていて良いはず。しかも歴史的には湊村の方が石巻村や門脇村よりも古いんだそうです。

そして、3つ目の作田島神社とはこちら。

この神社は門脇村の阿部十郎兵衛土佐という人(石巻には阿部さんがいっぱい!)にゆかりのある神社のようです。もし大昔から中瀬が島だったとしたら、わざわざ川を越えた、当時橋もない島に自分の家の神社を建てるでしょうか?

 

ははーん。何となく、もともと中瀬が島だったら辻褄が合わないような気配です。でも、もし中瀬が作られた島だったとすると、どうしてわざわざこんな大きな島をつくったのでしょうか?

 

辺見さん曰く、中瀬を作った理由は「湊(左岸)が手狭だったから」ではないかとのこと。

 

江戸時代初期、石巻を治めるようになった伊達政宗。彼が真っ先に取り組んだのは河川の改修でした。

辺見さん:「仙台藩をもっと強く、大きくするため、政宗は家臣に向かって、きっとこう言ったのではないでしょうか?」

北上川の上流には、登米、一関、盛岡など大きな町、そして肥沃な田畑が広がっていました。辺見さん:「北上川の下流に位置する石巻を中継港とすることで藩を強くする。そこで政宗はこう考えたのではないかと思います」

「この3つの機能を果たすには、左岸・右岸だけでは手狭でした。しかも左岸の後背地は岩盤エリア。そこで、右岸の一部を掘削し人工的に島をつくることで、より効率的に川を使おうとしたのではないか」と辺見さんは言います。

ではどのようにして実際に掘削していったのか。その方法についても二つ考えられると辺見さんは言います。一つは北上川と並行して流れていた川を2箇所掘削して繋ぐという方法(仮説①)。もう一つは人力と水流を利用して開削するという方法(仮説②)だそうです。そして、この工事を誰が先導して行ったのか?それこそが、川村孫兵衞ではなかったのか、その可能性もあるのではないかと辺見さんは言います。

どうでしょうか?あなたは「中瀬が実は作られた島だった」と思いますか?

正解はまだわかっていませんが、もし興味をお持ちの方は、ぜひ一度中瀬に足を運んでみてくださいね!

関連記事一覧